「海は……」と語る勇気がもう僕にはないから〔2020年版〕

アニメ『つり球』を考察する、波のようなメモです。いつの間にかテレビドラマ論になるのでしょう。

#01 テンパって「海」が現れるということ

●はじめに

 このブログは、アニメ『つり球』(フジテレビ)が放送された2012年に、同じタイトルで開設し、綴っていたものの新版になります。すでに物語の展開・結末を知ってしまってはいますが、あえて1話1話を観た時の感覚や印象を、手元に残していた「メモ」(元の記事は消してしまったので)から掘り起こすように、時に当時書いたものを再現し、時に新たに書き下ろしたりしながら、再放送にあわせて書いていきます。意図するところがあって、考察対象が別の作品へ、内容テーマが別のところへ飛躍することもあります。海は広いですから。そして「海」に様々な表情があるように、「波」にも強弱や緩急があるように、「浜辺」から見える風景が日によって違うように、文体が変化したり、文章の全体や一部が不意に現れ消え、読めたり読めなかったりする現象が起こることがあります。物語の舞台である江の島の「海の天候」情報などを参考に、このブログへ愉しみながら足を運んでくれたら嬉しいです。ぴと。

 

●テンパって「水の中」

 ――「海」に絶望を見たなら、背を向けるでなく、希望を求めて対峙せよ。

 2012年。アニメ『つり球』は、そんな気持ちにさせてくれるように、ちょっとばかり「あの日」から続く世界のかたちと覆う不安に対し、どう向き合えばよいかのヒントを教えてくれる作品でした。あの時も今も、とっても大好きで、また大事な作品です。そして今から振り返ると、わたしが惹かれて、重要と思う以後の各作品へも不思議と接続しているのでした。その辺りの詳しいことは、そのうち徐々に触れていくだろうと思います。

 

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 2012年当時は、しばらくの間、ドラマや映画などの(目にダイレクトに飛び込んでくる)映像作品は「海」をあからさまな形で舞台にし、描くことを避けてきたように見えました。想像を刺激するような「波」の表現は特にそう。そんな中で、挑戦的な作品が幕をあけた。それが、アニメ『つり球』(フジテレビ)です。1話を観て、たまげました。キャラクターたちの住む世界には「海」との隔てが無い。陸と海。空気と水。そうした境界(線)の意識を、じつに軽々と、ポップに乗り越えてみせる画と演出が散りばめられた世界観だったのです。

    主人公は、とにかくすぐテンパる。その時の息の詰まるような焦りを表現するのが「水」。足元からどこからともなく「水」が溢れてきて、気づくと「水の中」にいる。「水没」と「溺れ」によって息苦しさを表現してみせる。その「水」がとびきり透明感があって、清々しく澄んでいるのが何とも心地よい。そう、幼少期の熱い夏の日のプール。身体を水の中に浸した時の、爽快な特別な感覚みたいに。焦ってどう言葉を発していいか分からない苦しいシーンなのに、それを「水」を通してポジティヴに描く。これにとにかく驚きながら、そこに、どこかで待ち望んでいたものが満たされ、癒されるような安堵感を感じて、うるうるする面持ちになったのを鮮明に覚えています。

 ハル・ユキ・王子の3人が初めて釣りに出かけ、魚がかかる場面はとりわけ印象に残った。気まずい雰囲気になって「水」の中にいるハルが、釣り糸に引っ張られてそこを抜けだす。その時、画面に「垂直な水」の境界が現れる。水平線ならぬ、垂直線。フィクションにしかできないその造形のイメージ力も凄いが、ハルが陸に現れた「水」から、魚のいる「海」の方へ引っ張られていくのもじつに面白い。想像の「水」から、現実の「水」へ。そして焦る時、滝のような大量の「汗」が流れ出し、それが「水」更には「海」と地続きなのも見逃せない描き方。当たり前すぎて忘れている。そうだ、僕ら人間は個体のイメージが強いけれど、そのほとんどは水で出来ている。ぼくら人間の存在(命)は、世界の陸地にある「水」でもあるんだった……。そんな「人間」と「水」との境界をも問題にしうる物語。

 そもそもぼくらの世界は、大きく分ければ「海」か「陸」かのいずれかで構成されている。もっといえば「水の中」かそうでないか。「水があるか」ないか。そのどちらかだ。でも、こんなにも基本的なことを、すっかりどこかに置き忘れてしまった現代のぼくらに『つり球』は、いったい「海」や「水」とは、どこにあるのか。どのように存在しているのか。それと向き合うとはどういうことか――といった根源的な問題を突きつけてくるようだった。他でもない2012年という“特殊”な時間を生きるぼくらには、それはとっても重くて深いテーマでした。そして、飛沫やエアロゾルといった「小さな水」と対峙し、空気はたっぷりなのに息苦しいばかりの2020年の今へ。その問いは、続いているようでもあります。

   「海が……」と、対象化して語るよりも前に。日常の中に現れうる「海」。陸の世界にも偏在する「水」。この物語が見せた想像力は、「水」を切り離して、それを自己と隔たった他者や外部として存在するものとする概念や発想――つまり海をめぐるぼくらが当たり前にしてしまっている価値観に、大切な問いと補助線をくれた気がします。

 思えば「釣り」は哲学的なもの。ぐいと魚がかかれば「水の世界」へ引き寄せられる。逆にリールの糸を巻けば「陸地の世界」へ引きつける。釣り自体が、糸を垂らして、その一条の線を介して「海」と「地」を連絡する営み。人間を介した(いや人間も含めて)海と陸地との対話。魚を釣るという本来の目的・目標だけではなくて、こうした世界の境界(線)をめぐる大事な問題をはらんでいることが、1話からすでに強くただよっていました。

 さらに、もう一つポイントが。それは餌釣りではなく、ルアー釣りの物語だということ。「ルアーは魚がいる所に投げるんだよ」という王子。ルアーは待つという守りではなく、《攻め》のスタイルが基本。「海」に向かって、そこに生きる魚(命)に向かって、こちらから向かってゆく。この「海への積極的な姿勢」も、この作品のキーになっていく。

 エンディング曲は、さよならポニーテールが歌うスピッツの名曲『空も飛べるはず』のゆるふわカバー。これまた癒しと爽やかさがたっぷりで気持ちよい。この曲がヒットするきっかけになったのは、長瀬智也酒井美紀主演の『白線流し』(1996・フジテレビ)というテレビドラマでした。その主題歌としてブレイクした。舞台は長野県松本市。長野には「海」が無い。でもこのドラマの鍵は、卒業式に制服のスカーフなどを「川」に流す慣例行事。その「川」は辿ってゆけば「海」へ続いている。その意味では、じつは「海」と無縁な物語ではなかったとも言えます。『つり球』の海(面)は、数色のフェルト生地を貼り絵のように重ねた独特なテイストが特長。その流れゆく色は、川(の表面)を下ってゆくスカーフの感じにも見えなくもない……。

 そしてスピッツの『空も飛べるはず』は、「空」の歌というイメージが強いけれど、「海」を描き込んでいることに、ふと気づく。サビはこうでした。

 夢を濡らした涙が海原へ流れたら

 ずっとそばで笑っていてほしい

「空」に対して「海」が置かれている。決して容易ではないその歌詞をめぐって、MVの映像についてもあれこれ解釈がこれまでたくさん出ています。でもずっと見過ごされている感が強いのは、「海」が見える丘であること。そしてシャボン玉の「泡」。陸の空中をたゆたうそれは、風や空を強調・演出するだけのものか……。

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